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学習のページ シリーズ「自然と社会を科学する」 ■新入生のみなさん、入学おめでとう!これからはじまる学生生活に、たくさんの期待とちょっとの不安をかかえているのでは?シリーズ「自然と社会を科学する」では、大学での学びについて専門家に聞いていきます。 小森陽一さん(東京大学教授)に聞く(「民青新聞」2007年4月2日付に掲載) 久冨善之さん(一橋大学教授)(「民青新聞」2007年4月9日付に掲載) 石川康宏さん(神戸女学院大学教授)(「民青新聞」2007年4月16日付に掲載) 吉田裕さん(一橋大学教授)に聞く(「民青新聞」2007年4月23日付に掲載) 奥野恒久さん(室蘭工業大学准教授)(「民青新聞」2007年4月30日・5月7日合併号に掲載) 池内了さん(総合研究大学院大学教授)(「民青新聞」2007年5月14日付に掲載) 池内了さん(総合研究大学院大学教授)(「民青新聞」2007年5月21日付に掲載)
■自分にとっての学びは「なぜ?」からはじまる ――高校までの勉強とちがう大学での学びとはどういうものでしょうか。とくに、みずから「なぜ?」という問いを発して、みずから考えていく主体的な学びについてお聞かせください。 高校まででも、すぐれた教師と出会ってきた方たちは、「なぜ?」という問いを自分で発して考えていくという訓練を受けてきたと思います。けれども、いわゆる「受験勉強」だけをやってきた場合、そこには「なぜ?」という問いは発生しません。 いわゆる「受験勉強」は、ある問題にたいする正解だけをもとめるやり方ですから、正解か不正解かの二者択一の結果だけを早く知ろうとするだけになります。正解は、問題をつくった側から与えられるものですから、自分の頭で考えたということではありません。 「なぜ?」という問いかけは、現れている結果にたいして、その原因を推論することです。一つの現象の原因は、多くの場合複数です。その複数の原因をつきとめるには、その数だけ「なぜ?」という、それぞれことなった問いを立てる必要があります。 医学であれば、結果としての一つの症状があります。「なぜ?」そのような症状が発生するのかを問うていくと、まず人間の身体の生理学的なさまざまなはたらきが複合しているのを、それぞれ解明し、時間の推移のなかにおき直し、その症状にいたる原因の連鎖をつきとめ、最初の原因を発見すれば、それを取り除けば症状が起こらないことがわかりますから、いわゆる治療方法が見つかるわけです。 桃太郎は、「なぜ?」桃から産まれ、「なぜ?」その桃は川の上流から流れてくるのだろうか、という問いをもつと、「瓜子姫」などの異類誕生の民間説話の歴史を調べなければなりませんし、中国を源とするアジアにひろがった桃源郷神話も調べることになります。こうして、文学研究、民俗学研究、神話学研究などが形成されてきたわけです。 当たり前だ、と思われてきたことにたいして、「なぜ?」という問いをもつことから、文系でも理系でも自分にとっての学びがはじまります。正解をもとめるやり方は、すでに他人が知っていることをまねるだけにすぎません。もちろん、先人たちが「なぜ?」という問いを発し、それへの、多くの答えをだしてきたわけですから、まずそれを習わなければなりません。けれども、習うときでも、「なぜ?」という自分の問いがあるかないかで、頭への入り方はまったくちがうのです。 ■精神文化への理解と知識を創造的に生かす ――大学4年間で幅ひろい教養を身につけることにどういう意味があるのでしょうか。 「教養」は cultureの翻訳語です。この言葉は「文化」と翻訳することもあります。単に知識をたくさんもっているということではなく、ある地域、時代、社会によってことなりはしますが、人間の精神文化全体にたいする理解と知識をもち、それを創造的に生かすことのできる能力のことです。 技術(テクノロジー)は、知識によって得られますが、その技術をどのように使うかを決めるのが教養の力なのです。地球に近い軌道に打ち上げた複数の人工衛星からの電波で地球上の位置を測定する「全地球測位システム(global positioning system)」(以下GPSと略記)は、一つの技術です。この技術は、身近なところでは、カーナビゲーションに使われ、測量や航空機や船舶の位置確認、あるいは地震などの地殻変動の探査などにも応用されています。また外出時の子どもや高齢者の安全のためGPS受信機を搭載した携帯電話もあります。けれども、GPSはアメリカ軍が軍事目的で開発した技術です。湾岸戦争のときGPS誘導ミサイルの精度が全世界に宣伝されたうえで、1993年以降無償で民間に開放されたのです。 近代の科学技術は、原子力をはじめとして多くの場合、まずは大量で効率的な殺戮をおこなうために莫大な国家予算を投じて開発されてきました。一つの技術を人殺しのために使うのか、人間社会の幸福追求のために使うのか、これを判断する能力をやしなうのが教養なのです。 ■人間としての判断をおこないうる力 ――一般教養と専門学問はどういう関係があるのでしょうか。 大学では、人文科学、社会科学、自然科学を内包した「一般教養」を習得することと、専門領域の「専門教養」の両方を体得することをめざしてきました。けれども90年代以降、日本の多くの大学で教養課程をなくしていくうごきがつよまりました。東京大学では、「教養学部」を残しました。「教養学部」が私の職場です。 すぐ専門を学んだ方が、「即戦力」になりやすい、という考え方は、人間を「人材」という道具としてしか見ない、営利企業の発想です。「即戦力」という言葉自体、軍事用語です。自分がすすもうとする専門分野が、人間の精神文化のどこに位置し、どのような可能性と問題点をもっているのかがわからなければ、実際に学び研究していることが、人間社会の役に立つことなのか、それともそれを破壊してしまうことなのか、というもっとも大切な判断ができなくなります。人間としての判断をおこないうる力が「一般教養」と「専門教養」の結合によってうみだされるわけです。 ■物事の原因と結果を考えるなかで ――身につけた知識をもとに自分の意見をもつにはどうすれば、いいのでしょうか。 先ほどものべたように、「知識」だけでは「自分の意見」をもつことはできません。断片的な知識だけもっていても、それは、ただ知っているだけで、クイズのときに役に立つぐらいです。 大切なのは、一つひとつの知識が、自分のなかで、どのようにつながっているかです。はじめに戻りますが、知っていることをつなげるうえで重要なのは、原因と結果の関係です。たとえばいまの日本の都会で外出すると、どこかでかならず「テロ警戒中」という表示やアナウンスを眼にしたり耳にしたりします。ここで「なぜ?」という問いを発すれば、2001年から小泉純一郎政権の下で、ブッシュの「テロとの戦争」に全面協力をしているからだ、安倍晋三政権は、その協力をもっと軍事面で強化しようとしている。だから憲法9条をなくすための改憲手続き法(国民投票法)をムリヤリ国会を通過させようとしている…とつながっていくはずです。原因をあきらかにすると責任の所在がハッキリします。意見とは問題解決のための責任の取り方を明確にすることです。
■「死んで固まった知識」ではない 大学に入学して何を学ぶのでしょうか。それは何よりひろく深い知識だと思いますが、「知識」という言葉は、近年あまり評判がよくありません。それは「知識」というと、すでに何か決まりきったもの、まるで「死んで固まったもの」のような印象があるからです。でも知識は本来、人間の生きた活動のなかでうみだされ、たくさんのことがらと関連をもって生きてはたらいているものです。またつねに新しく創造され、つくりかえられてもいます。知識のそのような柔軟性・体系性・創造性を、ぜひ学生のみなさんに実感してほしいと、大学の教員たちはだれもが願って講義やゼミにとりくんでいると思います。 大学には、聞いているだけですぐに講義に引き込まれるような話し方の巧みな先生もいるでしょう。もちろん、1コマ聞いているだけでは「おもしろくない」「わからない」という印象をもつ先生もいるでしょう。しかし大学の先生とは、「知識が生きて、諸関係のなかで創造的に発展していることを、自分の研究・教育のなかでまちがいなく典型的に体現している人間たち」です。だから、半年間がまんして聞いてみると、ようやくその大事な意味がつかめるということもよくある経験です。 一人ひとりの学生のみなさんが、大学のどういう場面で(それは、講義か、ゼミか、たまたまの読書か)、何をきっかけに「知識の生きてはたらく性格」を実感するようになるかは、その人にも条件にも偶然にもよるので、一律には決められません。それでも、せっかく大学に入った以上は、大学というところで「知識というのは意外とおもしろいものだ」と感じる機会がもてることを期待し、また願っています。 ■「仲間とともに学ぶ」は民主主義の出発点 大学で出会うのは、教員や講義、図書館の蔵書などだけではありません。サークルでも、ゼミでも、少人数授業でも、ともに学ぶ仲間と出会います。私事になりますが、「自分が決めて、そこに自分で集中して勉強するのが効率的で何より大切」と高校まで思ってきた私には、大学の集団場面で「自分だけで考えるより、他の人の意見も聞いて議論した方が、ものがよりひろく深くわかるものだ」という経験ができたことは大きな衝撃でした。そこでは、自分が自分の考えをいえることも大事ですし、他の人の言葉をよく聞くことも大事です。またすぐにはうまく自分を表現することができない人を決して見下すことなく共感をもって接することも大切です。その意味では、そのような小集団で経験した「仲間と共有する学び」は民主主義の原点的な体験になると思います。 「仲間とともにする学び」を体験できれば、世界がひろがるだけでなく、民主主義の大切さを実感できるでしょう。そこにすばらしい友人関係もできると思います。学生のみなさんが、ぜひそのような仲間と共有する場を、サークルやゼミや学習会・フォーラムなどの多様なかたちでもてるように、と願わずにはいられません。 もちろんいまの社会には、「悪質」な集団場面などもいろいろと用意されているので、なんでもすぐにとびつくわけにはいきません。自分の関心と知恵で、またいろんな人の評判にも耳をかたむけて、見極めることが必要になります。 ■世界は「細部」からも見えてくる――自分の「興味・関心」を大切に 「自分の興味・関心を大切に」とよくいわれます。私もまったくそうだと思います。じっさい2カ月前に読んだ4年生の卒業論文6冊は、どの学生も自分の課題意識にこだわりつづけて書き上げられたもので力作でした。 もちろん「興味・関心」はつねに固定しているとは限らず、変化する人もいるでしょう。それも成長ですから当然です。ここでいいたいのは、ひろく世界を見ることが大切なことはいうまでもありませんが、一見とても小さなことでも、それを深めていけばかならずいろんなことにつながっているものなので、一つの「野菜」のことからでも、一つの社会問題からでも、学問の特定分野からでも、【世界が見えてくる】という点です。「真理は細部に宿る」という言葉があります。 だからまた「自分の興味・関心」を大切にして、自分なりの学びを深めていくことがとても大事になります。それは、仲間とともに学ぶ際にも「自分の個性」になるでしょう。 いずれにせよ大学は、社会のなかで「学ぶ意思と意欲」があれば、それを実現する条件が社会の他のどのような機関よりも恵まれている場所であり、またそれを可能にする期間を享受できる場でもあります。みなさんの大学生活が充実したものになることを願ってやみません。
■解決に向けて理由を探ろう いま大きな書店へいくと、格差社会についての本がたくさんならんでいます。ワーキングプアという言葉が流行語大賞にノミネートされ、同じタイトルのNHKの番組も話題になりました。お金持ちと貧乏な人の格差は昔からあったことですが、「働いてもまともに食えない」「同じ仕事をしているのにまるで給料がちがう」「非正規でしか雇ってもらえない」等の問題がこんなに深刻になったのは、実は最近のことなのです。 みなさんの友だちには「お金がないから大学にいけない」という人がいませんでしたか?また、みなさん方のなかにも「入学金や授業料を払うために銀行からお金を借りた」という人がおられるでしょう。大学卒業後の就職の不安を考えるまでもなく、「お金がない」ということは、このように私たちのくらしにとって、とても大きな問題です。「なぜ」いまの日本にはこうした生活のたいへんさがひろがり、これが重大な社会問題になっているのか、その理由(原因)を探り、格差社会克服の方向を考えてみます。 ■資本主義の基本的な特徴と改良の歴史 生命や宇宙などを探る自然科学があるのと同じように、人間社会についても、そのしくみや変化の方向、変化の原動力などを考える社会科学がなりたちます。格差や貧困の問題を考えるときには、とくに経済学の成果に学ぶことが大切です。 ひろい視野で歴史を見ると、社会にも自然と同じように、段階的な進化が起こっていることがわかります。社会は人間の集まりですが、集まっている人間同士の関係に大きな変化が起こるのです。その変化のなかで、現代世界の多くは資本主義とよばれる社会をつくっています。資本主義社会の基本的なシステムは、少数の「雇う人」がもつ工場やビルで、多数の「雇われた人」が働き、もうけをうみだし、そのかわり「雇われた人」は「雇う人」から給料を受け取り、その給料で生活するというものです。就職活動というのは自分を「雇う人」を探す活動のことで、就職するということは、自分が「雇われた人」になっていくということです。両者についてはいろいろなよび方がありますが、私は「雇う人」を資本家、「雇われた人」を労働者とよぶのが適当だろうと思っています。統計によれば、現代日本では、資本家や自営業者もふくめて、働いている人の約80%が「雇われた人」(労働者)に属しています。 19世紀の前半、世界で初めてイギリスに、資本主義社会が確立しました。日本での確立は20世紀初頭になってからのことです。このうまれたばかりの資本主義は、雇われる労働者の生活がたいへんにひどいという特徴をもっていました。給料は安く、労働時間は無制限で、職場の衛生環境は悪く、なかば奴隷的な児童労働もひろくおこなわれていました。もうけの拡大を追求する資本家にとって、こうして人件費を徹底して切り詰めることは、とても「合理的」な行動だったのです。 しかし、それでは労働者や家族のまともな生活はなりたちません。そこで労働者は、労働組合をつくり、資本家たちと交渉し、また労働者の利益を守る政党をつくって政治にはたらきかけ、少しずつ問題の解決をはかっていきます。1947年に施行された日本国憲法に、すべての国民は最低限度の生活が保障される(第25条)、労働条件の基本は資本家の自由ではなく国が法律で定める(第27条)、労働者は組合をつくり資本家と交渉する権利をもつ(第28条)などの条文があるのは、こうした労働者の歴史的なたたかいを反映してのことです。 ■財界と政府が改良の成果を掘り崩す その後も労働者たちのとりくみはつづきます。全体として給料は上がり、社会保障も拡充され、国民の生活水準は上昇しました。1970年代前半には、日本の全人口の43%が、福祉や環境を重視する「革新自治体」にくらすという、地方政治の大きな改革もすすめられました。これは政党としては共産党と社会党の共同を柱とするもので、この時期、自民党の政治は崖っぷちにまで追い詰められました。このまますすめば、日本はますますくらしやすい社会にかわるはずでした。 しかし、70年代の後半に入ると、大資本家の集まりである財界団体からの巻き返しがつよくなります。社会党が革新自治体からぬけ落ち、その結果、自民党も息を吹き返しました。労働者の賃上げにもつよいブレーキがかけられます。80年代の前半には社会保障制度の後退が開始され、後半には大企業の減税と、そのうめあわせとしての消費税が導入されました。また、労働者や国民のくらしを守る法律をジャマだとする規制緩和のうごきがつよくなり、90年代にはこれが加速されていきます。この加速の背後には、日本への進出をすすめるアメリカ大企業の要望もありました。 90年代の後半になると、リストラの自由化や非正規雇用の拡大が「構造改革」の名ですすめられ、「労働ビッグバン」といういい方もされるようになりました。このころから、労働者の平均賃金が下がり、全世帯の平均所得の低下がすすみます。20代の若者は、2人に1人が非正規雇用という「どんなに働いてもまともには食えない」生活に落とし込められました。今日の「格差社会」は、こうした流れのなかでつくられました。そこに責任を負うべきは、だれよりも日本の財界や政府です。「勝ち組・負け組」論や「自己責任」論は、それをすべて個人責任にすりかえようとする、きわめて悪質な議論となっています。安い給料、不安定な雇用のなかで、懸命に働く若者たちに責任があるわけではありません。 ■「構造改革」からの転換を 今日の格差社会がつくられるまでの歴史や、それをうみだす社会の力について見てきました。日本資本主義の歴史をもっと知りたいという方には、林直道『強奪の資本主義』(新日本出版社)がオススメです。また世界には、70年代までの日本でおこなわれた国民のくらしを守る改革をもっと前にすすめている国もあります。北欧諸国が典型です。これについては、竹?孜『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』(あけび書房)が読みやすい本になっています。 7月には参議院選挙がありますが、そこでは格差社会の克服も重要争点の一つとなります。規制緩和や労働ビッグバンをすすめる「構造改革」路線からの転換をどのようにして果たしていくのか、それもまたおおいに学び、考えてほしい問題です。充実した大学生活を送ってください。
■「慰安婦」問題を矮小化する安倍発言 安倍首相が「従軍慰安婦」問題にかかわって、「強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実だ」と発言しました。この発言には、二つの問題があります。一点目は、「慰安婦」問題を強制があったかどうか、という次元に問題をすりかえている点です。一番の問題は、日本の政府と軍が公的に関与して、慰安所制度をつくりあげ、それを軍や政府が運用していた実態があったこと、そのうえに慰安所制度がなりたち、女性にたいする深刻な性暴力がおこなわれたことにあります。1993年の河野談話は、この事実を認めています。しかし、安倍首相の発言は、制度そのものがもっている非人間性、女性蔑視などの問題をすべてわきにおいて、強制があったかどうか、というだけの議論に問題をすりかえようとしています。この点が非常に問題だと思います。 二点目は、河野談話では、少なくとも本人の意に反した強制性を認めていますが、安倍発言は、それをひっくり返してしまっていることです。「新しい歴史教科書をつくる会」の人たちが、「慰安婦」をめぐる論争で、“クビに縄をかけて、引っ張っていくような強制はなかった”という話に問題をすりかえました。安倍発言はこの議論を踏襲し、「慰安婦」問題を矮小化しているのです。 ■戦争責任をあいまいにしたまま 戦後60年以上たった今日、なぜこのような歴史認識、発言がつづいているのでしょうか。 一つは、「冷戦」があったため、アメリカをはじめとした連合国側が日本の戦争責任を封印し、同盟国として日本の安定・強化を最優先の課題にしてきたことがあります。東京裁判では、少数の被告人に戦争責任を押しつけ、日本の戦争責任の追及があいまいになってしまいました。 もう一つは、戦前、戦後の日本の政界、官界の連続性の問題です。政界では、多くの政治家が戦争に協力したとして、公職追放されます。しかし、「冷戦」に移行するなかで追放が次つぎに解除されて、政界に復帰します。官界でも戦後、戦前の官僚が丸ごと生き残りました。政官界では戦前、戦後は断絶せず、人的につながってきたため、戦争責任の問題があいまいにされてしまったのです。 ■海外からの批判は日本に原因がある その結果、これまで日本とアジアの国ぐにとのあいだで、歴史認識をめぐってさまざまな問題が起こり、内外からの批判に押されて、謝罪を表明してきました。 たとえば、1982年にあった教科書検定の国際問題化です。これは、歴史教科書が文部省の検定で中国大陸への「侵略」を「進出」に書きかえさせられた問題です。これがアジア諸国から批判され、教科書是正にとりくみ、「侵略戦争」という表現も認められ、日本の加害にかかわる記述もふえました。93年には河野談話で、「慰安婦」にされた女性にたいして明確に謝罪しました。また95年の村山談話では、いくつか問題点はありつつも、「植民地支配と侵略」を反省し、謝罪をします。 こうした謝罪があるにもかかわらず、いまなお歴史問題が解決しないのは、政治家から「東京裁判は不当な裁判だ」「南京虐殺はなかった」「『慰安婦』は強制ではなかった」など、次つぎに歴史の事実や謝罪を否定するような発言が出てくるからです。とくに今日、侵略戦争を肯定するような展示をする遊就館をもつ靖国神社に首相や閣僚が参拝する。あるいは、戦争の侵略性を正面から否定する「新しい歴史教科書をつくる会」のような運動もひろがりを見せる。こうしたことは諸外国からすれば、戦争にたいして本当は反省していないのではないかと見られ、不信感をひろげるわけです。海外からの批判が絶えないのは、日本側がその原因をつくりだしているからです。 最近は、韓国や中国などアジア諸国だけでなく、アメリカや欧米諸国にもこの問題が波及し、事態を深刻にしています。アメリカ下院で、「慰安婦」問題で決議案がだされているのは、その典型的な例です。日本のアジア外交だけでなく、アメリカとの関係にまで波及し、アジア、世界のなかから取り残されつつあります。 ■負の歴史に目をむけ、その反省に立ってこそ こうした状況のなかで、日本人自身が自分の国の歴史をどう見るかという歴史認識の問題が、非常に重要になっています。世論調査によると、いま多くの人がかつての戦争は正当化できないと考えています。しかし一方で、中国や韓国、アメリカなどから批判されることに戸惑いや違和感を感じる人もかなりいます。その点で、いま「冷戦」によって封じ込められてきた歴史認識の問題を本格的に議論する入り口に立っているのではないか、また自国の責任をどう考えるかが問われる時代になってきたのではないか、と思うのです。 そのなかで自国の近現代史、とくに負の歴史に目をそらさずに過去とむきあうことが大切だと思います。あわせて今日、戦争の時代よりも戦後史のほうが長くなりました。そのため、日本の戦後史についての理解をもたないといけないと思います。日本は戦後、アジア諸国にたいしては賠償していないという事実を誤解している人が多くいます。日本は賠償に準じるような経済援助はしました。しかし、被害者への補償、賠償はおこなっていないのです。 先ほど日本の謝罪について、村山談話にふれましたが、村山談話では被害者への補償はしないことになっています。あるいは「慰安婦」にたいしても、村山内閣時代に民間基金をつくってお金を集め、謝罪の文章といっしょに「慰安婦」にされた女性にわたした事実はあります。しかし、これも国家補償ではないのです。 謝罪というなら、日本政府が被害者個人への補償に応じていくこととあわせて、かつての侵略戦争の事実をしっかりと歴史教育に反映させていく――この二点があって、はじめて本当の意味での謝罪になるといえるのではないかと思います。 いま日韓、日中で政府、民間レベルなどさまざまなかたちで歴史の共同研究がすすめられています。かつての侵略戦争にたいする歴史認識をもち、その反省の上に立って、今後、アジア諸国との共通の歴史認識をつくりながら、ともに未来をきりひらいていくことがもとめられていると思います。
■大学で憲法を学ぶとは? 大学で講義される憲法学の目的について、ある著名な先生は、「制度の沿革を探り、その趣旨、目的および機能を、それに関する諸々の見解の比較検討と対立しまたは絡み合う諸々の価値・利益の比較衡量とを通じて、具体的に明らかにし、一定の結論を導き出す論理構成の能力を養うこと」とのべています(芦部信喜『憲法・新版補訂版』岩波書店)。むずかしそうですし、少なくとも暗記を中心とした中学・高校の社会科とは大きくちがうようです。試験においても、通常だされる「〜について論じなさい」式の論述問題では、当然のことながら一つの決まった正解はありません。問われるのは、当人がどのように考え、それをどれだけ説得力をもって表現するか、なのです。 では、どのように学べばよいのでしょうか。私には荷の重い問いですが、ただ講義を聞き教科書を読んで知識を得、表現力を磨くだけでは不十分でしょう。それだけでは、「血の通った」説得力ある主張など、できそうにないからです。そこで、さしあたって二点、提案してみます。第一は、いまの社会のうごきをみずからも当事者として見つめることです。疑問やときに怒りを感じることが必要だと思うのです。第二は歴史のなかで私たちの先人がきずいてきた原理・原則をふまえることです。歴史に学びつつ、うごく現在を見つめる、憲法学とは非常にダイナミックな学問だと思います。 ■憲法論の原理・原則から改憲論議を考える 私は、「憲法」の初回の講義で、「日本国憲法のなかで、この憲法を尊重する義務が明記されている人はだれですか?」と問いかけます。そうすると、残念ながら圧倒的多数の学生が「国民」と答えるのです。そこで、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と定めている憲法99条をしめしつつ、近代立憲主義という憲法論の大原則について話します。憲法とは、国民が権力担当者をしばるために定めた法なのだと。当然、なぜこの原則がうまれたのか、絶対王制、そして近代市民革命という歴史的経緯にもふれます。 近代立憲主義という原則を確認するだけで、現在の日本における「おかしさ」がいくつか浮かび上がってきます。たとえば、いまの改憲のうごきです。このうごき、国民が主体的に声をあげているのでしょうか。事実は、まったく逆さまで、安倍首相をはじめ与党国会議員など権力担当者が声高に主張しているのです。憲法でしばられる人たちが、そのしばりを解きたいというのですから、矛盾の程はあきらかでしょう。 もう一つ、2005年11月に発表された自民党「新憲法草案」を手にしてみてください。たとえば、その前文では「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る義務を共有し」とのべるなど、憲法で国民の行為規範を定めようとしています。さてさてこの規定、立憲主義との関係では、どうなのでしょうか。他にも、今国会で論議されている「憲法改正手続法案」も、立憲主義という原則から見ると、多くの問題があるのです。 ■私たちの社会について考える 憲法をとりまくいまの日本社会について考えてみましょう。手はじめに、思いつく憲法関連の事件をあげてみてください。イラクへの自衛隊派遣、首相の靖国参拝問題、教育基本法の改定、「日の丸・君が代」強制問題などが出てきそうです。今国会では「格差」問題や「米軍再編推進法案」も論じられています。いうまでもなく背後に、改憲論もあります。さて、これらの問題はてんでばらばらのものなのでしょうか。 改憲論の主たるねらいは、9条をあらため、日本の軍隊を海外で自由に活動させることにあります。それは、1990年代以降の自衛隊をめぐる法制の推移―たとえばPKO協力法(92年)、周辺事態法(99年)、テロ対策特別措置法(01年)、イラク復興支援特別措置法(03年)、自衛隊による国際活動の本来任務化(06年)―、そして自民党案に代表される近時だされている改憲案、さらには集団的自衛権などをめぐる昨今の日米間のうごきを見るとあきらかでしょう。では、なぜ90年代以降、自衛隊を海外にだすうごきがつよまったのでしょうか。別のいい方をすれば、なぜ日本はいま、「戦争のできる国」へと急速に向かっているのでしょう。 この問題、「格差」拡大ともかかわっています。「勝ち組」とされるものの代表は、やはり大企業でしょう。そして今日、日本の大企業は生産拠点をふくめ、世界中で活動するようになっています。つまり、日本の大企業の権益は、もはや国内だけでなく世界中に存在するのです。世界全体の経済秩序をアメリカといっしょになり、ときに軍事力を行使してでも維持したい、それが「勝ち組」の要求なのです。 さらにもう少し目をひろげると、教育の場がいまや、一方で国や社会につくす国民を育てる場に、他方で「全国一斉学力テスト」や学校選択制等を通じて、早い段階から「格差」を助長する場にかわりつつあります。労働の場でも、社会保障の分野でも、とりわけ「負け組」とされる人たちは、ますます深刻な状況に追いやられています。アメリカのように、「戦争に従事する」ことで生活を立て直そうという若者まで出てきかねないのです。 戦争と「格差」のかかわりについて、その一端を見ましたが、このように実は、現在生じているさまざまな問題は、奥底では通じているのです。では、その「大本」はなんなのでしょうか。この問題意識は、学びを超えて社会を見つめる原動力になるはずです。 ■日本国憲法の価値 日本国憲法は立憲主義に立脚するのみならず、憲法9条で「戦力の不保持」をふくむ徹底した平和主義を採用しています。しかも、憲法前文では「全世界の国民」の「平和のうちに生存する権利」を確認しているのです。日本だけが平和であればよいという「一国平和主義」ではなく、全世界の国民の平和を「軍事によらず」創ろうというのが、日本国憲法の平和主義なのです。裏返せば、「どんなことがあっても戦争はダメだ」という、侵略戦争への深い反省と、核時代の戦争にたいするリアリスティックな認識にもとづくのです。 改憲論が吹き荒れているいま、そのねらいを探りつつ、どうか日本国憲法の価値を学んでください。
■新入生のみなさん入学おめでとう。文系にすすんだ人も理系を選んだ人もいるでしょう。大学では、いかなる分野にすすもうと、「学ぶ方法を学ぶ」のが一番大事であると思っています。これまでに人類が獲得してきた知識は膨大であり、それをすべて学ぶことは不可能なことです。しかし、何を調べればわかるか、より深めるには何にポイントをおけばよいのか、現実に起こっている問題にどう適用するか、など学問の急所を押さえ発展させていくための方法を身につけるのが大学時代の目標であると考えるからです。 すべての学問は科学に関連しています。自然科学分野だけでなく社会科学・人文科学とよばれるように、どの分野も科学的な観点を身につけることによって将来の見通しがつけられるようになるのです。未来にたいして予見力をもつ学問こそ次代を担う君たちにもとめられているといえるでしょう。ここでは地球環境問題を例にとりながら、科学を学ぶとはどういうことか、とりわけ科学の方法とはいかなるものかについて考えてみたいと思います。 ■地球環境問題をどう考えるか いまやだれもが地球環境問題を口にするようになりました。現在の、大量生産・大量消費・大量廃棄のシステムが地球に大きな負荷をかけているとだれしもが感じはじめているからです。そして、暖冬は地球が温暖化している証拠かもしれない、台風や豪雨が強くなるのも地球の気候がかわりはじめている兆候かもしれない、と不安な気持になってしまいます。その一方で、「地球環境問題は大ウソ」だと主張したり、過去の地球が何度も経験した変動でしかなく心配いらないというような言説も出回っていて、少し安心させるような気分にさせてくれることもあります。さて、地球環境問題をどう考えたらいいのでしょうか、それを科学的に考えるとはどういうことなのでしょうか。 どんな事柄でも、まず事実をつみ上げて、どういう状態になっているかをしっかり押さえる必要があります。事実そのものはだれにも否定できないことですから。 ■地球の温暖化と二酸化炭素の増加 地球環境問題でいえば、地球が温暖化していることは事実です。1970年代以降ゆっくりと平均気温が上昇しており、とくに90年代以降は顕著に上がっているのはだれにも否定できません。(それにたいして、都会のヒートアイランド現象―都会ではエネルギーを大量に使うので周辺部より温度が高いこと―が影響しているためで、本当に地球全体が温暖化しているわけではないという反論があります。しかし、いまや海上や大気外の温度を測る体制が整備されていて、都会の温度だけで議論しているわけではありません)。事実、地球の温暖化の影響で、南極の氷床が溶け、北極の氷の面積が減少し、高山の氷河が後退しています。 さらに、大気中の二酸化炭素量が産業革命以来、15%以上増加していることも事実です。かつては人間の生産活動や実生活から排出される二酸化炭素は海や植物に吸収されていたのですが、もはやその限度を超えた排出量になったためと考えられます。二酸化炭素は温室効果ガスですから、それがふえると地球を毛布でくるんだような状態になりつつあるのです。 そこで、この二つの事実をむすびつけて、二酸化炭素が増加しているから地球温暖化がすすんでいると考えたくなります。しかし、相関関係がある(二つの事実がそろって同じ挙動をしめしている)からといって因果関係にある(一方が原因で他方が結果とみなす)とは限りません。二つに共通の原因があって二つともその結果である場合もあるし(たとえば「スカートをはいている人間に乳ガンが多い」)、単に一方が他方の指標になっているだけで因果関係とはいえない(「ある時刻になれば電車がいっせいに出発する」)場合もあります。 ■科学的に考えるということ つまり、事実の解釈にはさまざまな可能性があり、それを論理的かつ実証的に議論することが必要になるのです。科学的であるということは、事実をむすびつけるルートをすべて数え上げ、その可能性を一つひとつきちんと吟味していく態度のことです。 そのためには、さまざまな知識を必要とします。地球の温度を決めているのは何か(太陽の活動、地球自転の変動、大気中の水分や塵の量、オゾン層の厚さ、人間活動など)、二酸化炭素の増加は何によるのか(人間の活動以外に、火山爆発、森林破壊、植物の腐敗、海の温度上昇など)、二酸化炭素の増加は何をもたらすか(植物が元気になる、塵の量がふえて太陽光線を遮るなど)、という風に考えるべき要素は多くあるのです。 科学的に考えるためには基礎的な科学の知見が必要であり、それを知らないままでは感覚的に反応するだけになってしまいます。大学でまずしっかりと学ぶべきなのは、そのような科学の基礎なのです。社会学、経済学、歴史学、自然科学など、すべての学問で蓄積された人類の知恵を学びつつ、現代の問題に応用できるようなヒントを得る、それが第一に重要なことです。先人は、どのように矛盾をとらえたか、どこに(当時の)学問の弱点を見つけたか、新しい視点がなぜ獲得できたのか、など学問をすすめる上での方法がそこにみつかるはずです。 そのなかで、現在私たちが当面している問題について自分なりに調べてみることが必要となります。現在当面している問題は、まだ人類が経験したことがないので、それを体系化した本や資料は少なく、断片的な研究を寄せ集めねばなりません。考えるための新しい視点も自分で発見しなければなりません。そのような作業を通じて、科学をすすめる方法を具体的に自分のものとすることができるでしょう。 地球環境問題についていえば、地球物理学、生態学、廃棄物工学、化学、政治学、経済学など、さまざまな分野からの分析が必要になります。それらを集大成してはじめて本当の姿が見えてくるのです。といっても、個人ですべてを知ることは不可能ですから、いろんな分野の友人と手分けして調べ議論することがもとめられます。大学という場所のよさは、もとめるとかならずそのような仲間がいることです。たくさんの(分野がことなる)友人をつくり、さまざまな角度から意見交換をする、それが大学生活を活かす秘けつではないかと思います。むろん、これは地球環境問題だけではなく、他のどんな問題についても適用できることです。(つづく)
■科学の方法 自然科学の方法は、これまで要素還元主義という方法が成功してきました。ある現象を見たとき、それを支配するより根源的な要素(物質)を考え、その運動や反応性の法則があきらかになれば問題を解くことができる、というものです。デカルトが提唱した方法で、分析的手法ともよばれています。この方法は科学をすすめる上で非常に有効であり、数々の成功を収めてきました。自然を相手にする科学だけでなく経済学や歴史学にもひろく適用され、標準的な方法として定着しています。 しかし、この方法には欠陥があります。一つは、より基本の要素を追いもとめるあまり、科学が細分化され専門化が加速されたことです。より細かな現象、より微細な効果へと研究の焦点が絞られ、全体が見えなくなりつつあります。科学の専門家といってもごく限られた分野しか知らず、おとなりの研究室でやっていることが理解できないといった状況がうまれているのです。 もう一つは、この方法では解けない問題が数多くあることがわかってきました。ある現象を支配している要素が複数あり、それらが対等の関係―二点間が直線でむすばれている線形の関係ではなく、曲線でむすびあっている非線形の関係―にある場合です。そのような場合、要素還元主義は無力になります。各要素がたがいの作用で新しい運動や反応性をうみだすので、各々の要素の法則がわかったからといって、その総和が全体を表すわけではないのです。弁証法の法則に「量が質に転化する」という命題があります。まさに、複数の要素のつみ重ねが新しい秩序をうみだすのです。これを「複雑系の科学」とよんでいます。 実は、私たちの周辺で起こっている事柄は、このような複雑系の科学に関連する問題ばかりなのです。地球環境問題、生態系、気象予報や気候変動、人体、経済活動、国際政治、歴史の変革期など、いくらでも思い浮かべることができます。日常生活で遭遇するのは、むしろそのような問題ばかりといえるかもしれません。しかし、そのような問題は要素還元主義では解けないとして後回しにされてきたというわけです。 ■地球環境問題のむずかしさ 地球環境問題は典型的な複雑系の科学です。関係する要素だけでも、太陽からのエネルギー、地球大気(水分や二酸化炭素や塵の量)、地球表面の氷床や森林の動向、海流の流れ、地球の自転などがあり、それぞれがたがいに関連しあっています。その一部だけ取りだして分析しても全体がわかるわけではありません。たとえば、大気中の雲や塵は太陽エネルギーを反射するとともに温室効果にもはたらきます。環境次第でプラスにもマイナスにもはたらくから、どちらの効果が勝るかは一口ではいえません。地球環境問題のむずかしさはそこにあるのです。 地球の温暖化と二酸化炭素の増加という二つの相関した事実をむすびつけるあいだにもさまざまな非線形の関係が介在していて、単純な因果関係としてむすばれているわけではありません。要素還元主義によって得られるような明快な結論がだせず、「科学的に証明されていない」ことを理由にして環境問題は大ウソというような言説がまかり通っているのです。 科学は万全ではありません。まだまだわかっていないことも多いのです。だからといって科学を放棄しては、何事にも「わからない」ですませてしまうことになってしまいます。いま必要なのは、困難な問題にも対応できるように科学を鍛えることなのです。複雑系の科学はうまれたばかりの分野ですから、要素還元主義とはことなった方法や考え方を見つけねばなりません。それは君たちの世代の重要な仕事であると考えています。(私の世代は要素還元主義に毒されていて、新しい発想が取れないのです)。 ■予防措置原則こそ 刑法に「疑わしきは罰せず」という原則があります。罪のない人なのに罰してしまう冤罪を防ぐための考え方で、特定の個人については状況証拠ではクロだと思えても直接証拠がなければ無罪とすべきとしているのです。(現在の警察は検挙率を上げるために、この原則をふみにじることが多いようですが)。 しかし、不特定多数の人間や環境に害を及ぼす危険性のある場合には「疑わしきは罰する」原則にかえねばならないと思っています。これまで数かずの公害や薬害問題が生じたのですが、その根源には直接証拠が得られないあいだは「科学的に証明されていない」ことを理由に「疑わしきは罰せず」をくり返してきたためです。そのため多くの被害者をだすことになってしまいました。 地球環境問題も同じことです。その被害者は(加害者も)不特定多数の地球上の人間であり、「科学的に証明されていない」ことを理由にして放置すればばく大な被害や犠牲者が出ると懸念されます。そのような危険性が予想される場合には、その事実を科学的に証明できなくても、予防のための手を打たねばならないという、いわゆる「予防措置原則」を発動することが重要なのです。たとえば、病気に有効な新薬ができても、実際に使う前にあらゆる可能性をテストして、通常の範囲では安全であることが証明されてはじめて患者さんに投与できるという当たり前の原則です。(しかし、その原則が守られないために薬害が生じているのです)。 ■大学で学ぶこと つまり、現代の科学の限界を見極め(わからないことはわからないと明確にし)つつ、公衆や環境に害悪を及ぼす危険性があるものについては予防的な措置をとって将来に託すことです。おそらく、それがもっとも科学的な態度であり、どんな問題にたいしても堅持すべき方法であると思っています。大学は、その方法を鍛え自分のものにする重要な機会を提供してくれるでしょう。そして、地球環境問題だけでなく、他のさまざまな問題についてもこの方法を適用してください。きっと新しい地平が拓かれていくにちがいありません。 |
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